「死にがいを求めて生きているの」(朝井リョウ)は、令和を生き抜くヒントが隠されている
平成とはなんだったのだろう。
とんでもない戦争があるわけでもなく、餓死者が出るような大恐慌があるわけでもなく、生活保護とかも含めれば、みな平和に食べていくことはできる時代。
一方、個性個性と言われるわりに個性のない時代なのかもしれない。我々はどこかに向かっていっていたのかというと、それも無い。
三島由紀夫が昔、産経新聞に書いた言葉がなんとなく思い出される。
日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。
一通り経済成長もして、ある程度みんなが豊かになり、これから国としてどこを目指していこうというのもない。
一方で、「これからの時代はフリーランスだ!」「転職!DODA子!」はたまた「好きなことで生きていく!」などと、個人の選択肢や価値観が広がったぶん、これというものを見つけられない人にとっては、生きづらい世の中。とりあえず大学合格を目指して勉強して、とりあえず就職して、あまりなにも考えずに生きてきたのに、いまさら好きなことで生きていけと言われてもなーと。
こんな感じで、やや空虚な、少し堕落した精神を持って平成を生きてきたわけですが、なんか自分の思ってることを代弁してくれるような本に出会いましたので感想を。
あなたは堀北雄介のことを笑えるか?
堀北雄介は、自分の周りにもよくいる痛いやつだけれど、野放しに彼を嘲笑し、批判できるだろうか? 特に大学時代の自分はそんな感じだったし、現在でもそういうところは多少なりともある。自分だけの物差しを持てるほどの強さも、見識もないし、迷える子羊のようになるのもしょうがないということにしておく。
智也と堀北が詐欺師の家で言い合うシーン、自分は智也側の人間なのだと信じたいけれど、堀北の言い分にも自分でうまく言い返せないほどに、ザクザクと心に刺さってくる。
そんなに生きる意味って大切?
「究極的にはただ生きてるだけでいい」とかいうけど、それほど人は強くいられるのか。ほんとはただのタネの運び屋で、生きる意味なんかなくて、ただ食べて寝て性交するだけの存在なのかもしれないのに、「生きがいとは?」「生きる意味とは?」「幸せとは?」などと、小難しく考えてしまっている。
ただ生きるだけなら、べつに生活保護もあるわけで、なにもしなくても生きてはいける時代。
だから、ひとはそれより高いところを目指さないといけないと、なかば強迫観念のようになってしまっているのではないか。
目指す方向は定まらないし、SNSやメディアで「自分よりすごい人」は沢山いるし「こういう生き方はダメ」と価値観を押し付けられる。
そうするとだんだん自分を卑下するようになり、自分もなにか「他人に誇れること」をしないといけないんだという恐怖がうまれる。それがまだ他人に貢献したいとかならばいいけれど、堀北のように、他者からいかによく見られるか、なにかに向かってる自分かっこいいとかとなるから、結局は自分を見失うことになるし、自分の土台はぐらつく。そしてその土台は自分が作り上げた勝手な「他者の期待」によるものでしかない。
令和をどう生きるか
今、平成が終わり令和という新たな時代に突入した。そんなときにこの本に出会えたのはとても興味深いことだった。平成の生きづらさというものをちゃんと言語化して認識できるし、新しい時代への希望も静かに、しかし強く感じられる内容となっている。
他者への期待にこたえるのではなく、ただ他者を愛し、ただ他者と向き合い、そして自分にも優しくしていこうではないか。
淡々と、自分にできることをやっていくのみ。